ホーム > 私の酒井雄哉師 比叡山天台宗大阿闍梨 故・酒井雄哉師に捧ぐ
私と酒井雄哉師は、私の20年の勉強期間の中でご縁を得て、この仕事を始めて4年目の2004年から明玉プロデュースの酒井雄哉師の講演会(住友生命健康財団主催)を2012年まで開催して参りました。
講演会のときはもちろん、それ以外でもたくさんの場面で酒井師にお会いし、お話しする機会はたくさんありました。2013年9月23日に亡くなってからは、心塞がれる日々を送っておりましたが、ようやく、酒井師との心温まるおだやかで優しい出来事を綴ってみようという気になりました。私の記憶の中に留めるのではなく、カタチに現すことが恩師への供養となると考えられるようになりました。
思い出せる限りのエピソードを折にふれ、綴っていきます。みなさまと共有できたらと思います。
2015年1月吉日 内山明玉
【2015/1/8】
タイガースファン、いわゆる「トラキチ」だった酒井師。講演会のときもタイガースファンであることを公言して憚(はばか)りませんでした。
ある日、タイガースの全ナインと監督、フロントマネージャーに至るまで全員のサインが各人1球ずつに、それぞれしっかり入ったお宝ボール24個くらいを自慢げに見せてくれました。赤星、金本、真弓だったかしら?
「こんなプレミアムもの、人にあげたらダメですよ」と釘をさしてお山を下りて、二週間後、またお山に上がり酒井師に会うと、そのボールが入っていた箱がポツンとあり、中はカラ!
「あのあと、皆に自慢していたら、おねだりされて、結局、全部あげちゃったの・・・」という始末。
残念そうにしている酒井師をみていたら、なんだかかわいくて・・・「私ももらっておけば良かった」なんて、笑ってしまいました。
「人生フルスイング」という酒井師直筆のラベルが貼りつけられたワンカップ日本酒が、京都・丹山酒造から販売されています。
このキャッチコピーは秀逸ですね!野球好きの阿闍梨様ならではです。
阪神タイガースのオーナー?フロント?監督?かいなぁと思わせる程、トラキチの阿闍梨様は、よく黄色と黒のタイガースカラーで日本酒を造ってもらっていました。いつも頼まれると、そのお酒を送っていました。
1ダース、タイガース色の酒を送る豪快さ。
その黄色の、一升瓶の半分サイズの日本酒を埼玉の氷川神社に明玉が奉納したことがあります。それは、氷川神社の本殿で光っておりました。
「必勝 阪神タイガース」と、もちろん阿闍梨様の直筆が印刷されたお酒を奉納したことを報告すると、阿闍梨様は大変喜んでいました。その年、阪神タイガースは優勝できませんでしたが。まあ、必勝祈願だから、良しとしますか。
ゴルフの某・プロがスランプのとき、酒井師に会いに来て、どうしたらスコアがアップできるかを問われたとき、ゴルフはさっぱりわからん酒井師は咄嗟に浮かんだことをプロに話したそうです。
「18ホール、ボールを入れるのがゴルフよね。芝の上でゴルフをしている自分を空の上から別の自分が見るようにしてはいかが?」
まるで幽体離脱。その話を聞いたプロは腑に落ちたらしく、そのあと、快進撃で賞金王になったとか。
酒井師曰く、お堂の行のときに堂内の自分が山を走る自分を見てしまう、という現象に襲われ、一種のワープ状態だか。それを思い出しアドバイスしたそうです。
「俯瞰」するというのかなあ、と語っていらっしゃいました。
アドバイスを見事にカタチにできるプロもすごいし、門外漢なのに的確なアドバイスができる酒井師もすごい。
Meigyoku Eyes/2014年11月のメッセージ内でもご紹介しましたが、阿闍梨様は高倉健さんと交流がありました。
お山の冬は寒い・・・それを心配して高倉さんが阿闍梨様に寒いお山で暖かく過ごして欲しいと思われたのでしょう。軽くて暖かい、山岳用品のメーカー「パタゴニア」のスウェットスーツ(上下)をプレゼントしてくださいました。濃紺の上下で阿闍梨様はそれはそれはうれしそうに着ていらっしゃいました。
「健さんからもらった」を何回も言って自慢していた阿闍梨様を思い出します。スウェットなので靴はスニーカーが合うのですが、そこは雪駄を履いて登場!
それがまた粋でよく似合ってました。本当に暖かいらしく、もしかしたら高倉さんも撮影のときに使ってらしたのかもしれません。
あのパタゴニアのスウェット・・・いまでも目に焼きついて離れません。若々しい阿闍梨様でした。
阿闍梨様はあまり着るものに執着がないのですが、こんなエピソードもあります。
春頃、トレーナーを着ていて、墨で袖が汚れていたので、新しいトレーナーを買ってくるから着替えてくださいと頼むと、急にハサミを持ち出し、袖を切ってしまいました。洗濯してもなかなか取れない墨ですが、汚れた部分の袖を切り、半袖のトレーナーにしてしまったのです。
「これで気にならないでしょ?」だって。
まるでミヤケイッセイのようなデザインになり、そこにいた全員、唖然。爆笑。
何をやっても豪快で繊細な方でした。
青森県・弘前にて、「高砂」という弘前では有名なお蕎麦屋さんを紹介していただき、弘前の講演会の前にランチをご一緒しました。阿闍梨様は無類の「そば」好きで その分、味にもなかなかうるさく、こだわっていました。弘前は水も良いし、そば粉のブレンドも素晴らしく、絶品のもりそばでした。朝早く飛行機で空港に着き、りんご農園などを見学していたせいか、お腹も減り、実に良いタイミングの昼食でしたが、阿闍梨様が一杯目を食べ終わったあと、申し訳なさそうに「あの、おいしいから、もう一杯おかわりしてよい?」と言われたのです。「もちろん、一杯といわず、何杯でも・・・」と言った私に照れくさそうに、「じゃ、頼んで!」と、おっしゃいました。
「京都や坂本の蕎麦もうまいが、ここ弘前の蕎麦は絶品」と、叫んでいらっしゃいました。このあとに開催された講演会でこのお蕎麦の話を持ち出して語っていらっしゃったのですから、余程気に入ったのでしょう。
講演会後、「お蕎麦のことは言ったけど、りんごのことを言うのを忘れた!」と反省しきり。阿闍梨様の気遣いに心がなごみました。
蕎麦は坂本も有名で、そば粉の製粉工場が多くある関係からか、よくそば粉をいただき、それを水で溶き、お焼きにして常備食として備えていらっしゃいました。
一昼夜にかけて8千枚の護摩供養を行なう大護摩供養のときは、このそば粉のお焼きを傍らに置き、挑んだそうです。
お焼きは、なんと、阿闍梨様が自ら作るそうで、フライパンで油を引かずにどんどん焼いていくらしく・・・想像すると、なんかかわいく思え、心がほっこりしました。実際は、このお焼きがエネルギー源ですから、護摩供養も乗り切れるわけです。
お蕎麦に関するエピソードはまだありますが、青森・弘前の思い出として「高砂」のお蕎麦は忘れられないことのひとつです。
【2015/3/16更新】
阿闍梨様はたくさんの本を出していらっしゃいますが、本を差しあげるときにサインをしていただく際、「酒井雄哉」と名前を書くだけでなく、必ず何か「お言葉」を添えてくださいます。その「言葉」はあらかじめ用意しているわけではなく、天から降りてくる言葉をお書きになるのです。
本に書くサインも色紙にでも、いつも心に浮かんだお言葉をお書きになります。つまり、人によって違うお言葉になるわけです。皆様にそれぞれ違うお言葉を書いていらっしゃいました。
長寿院の敷地内にまるでアトリエのように創作現場がありまして、作家や書家、画家さながら墨と筆で字を書いていらっしゃいました。
年末に書く「干支」の色紙は一日に100枚ペースでこなしていくと聞いております。
こちらがお願いする折には、ひとつも嫌がる素振りもなく、サインとお言葉を書いていただき、貴重なものとして心から感謝しております。
阿闍梨様が亡くなった2013年は「巳(み)ヘビ」年でした。色紙の干支は「巳」が最後となり、2014年の午 ウマ年からもう阿闍梨様の直筆による干支の色紙がこの世にないことはとても辛いことです。
いつも12月の一週目に色紙を準備して年末年始のあいさつとしていらっしゃいました。
私の部屋には最後の「巳」が置いてあります。なぜか片付けられず、次の巳年まであるかも。きっと時が悲しみを癒してくれるのでしょう。
私が阿闍梨様と最後に会ったのは2013年6月9日でした。
東京のある病院で個室に入院なさっていました。
実はこの日は二回目で一回目は4月17日だったと記憶しております。
4月のときは手術が12時間もかかり、大変だったとおっしゃっていましたが、見舞ったときはとてもお元気でした。
「本をあと4冊書かなきゃ」とおっしゃり、病室で執筆中でした。少し両足が細くなっていて、不覚にも泣いてしまったのです、私。何故泣いたのかわかりませんが、足の細さにせつなくなり、早くお山に戻ってほしいと思った瞬間、涙があふれ・・・実は私もその頃、あまり体調がすぐれず、カラ元気の状態でした。
6月9日にお目にかかったときはもう涙は出ませんでしたが、阿闍梨様は私をエレベーターの前まで見送ってくださいました。たしか19階のエレベーターホールでした。そこで阿闍梨様と阿闍梨様の妹君(ぎみ)が笑顔で見送ってくださいました。
これが最後の別れとなるなんて・・・。
後日、高倉健さんが阿闍梨様を見舞った際にも阿闍梨様はエレベーターの前まで見送ったと聞き及び、お身体お辛かったであろう阿闍梨様のご配慮に高倉健さんも心打たれたことでしょう。なかなかエレベーターホールまで見送ることはなさらない阿闍梨様だったそうで、いつまでもあの6月9日の天気の良かった午後2時頃を忘れられないでいる私です。
こののち、阿闍梨様は6月28日に延命治療を拒否なさって覚悟を決められ、お山に戻られました。永眠する9月23日は、私も入院しており、どんなにお山が遠く感じたことか、人生でこんなに辛い日はなかったと思いました。
葬儀の日には白い蝶々が飛んでいたとか。素晴らしい晴天だったようで、阿闍梨様のお人柄のままだと感じ入りました。
私は病室から手を合わせ泣いていました。
あれから1年半経ち(2015年3月現在)、やっと書けるようになったこと 心から皆様と阿闍梨様に感謝しております。
犬のシロちゃん、クロちゃんとのエピソードは酒井師の著書にも紹介されていますが、私が酒井師から聞いた話のひとつで感動したのはシロちゃんの身体を張ったまさしくボディガードの話です。
飯室谷は昔、暴走族がお山まで入り込んで暴れていたことがあり、長寿院にもバイクで侵入してきました。シロちゃんは夜中、爆音で起き、酒井師を守るべくわざと暴走族の兄ちゃん達の前に出て向かっていきました。金属バットで叩かれ、負傷したまま族たちが去ったのを確認して家の軒下にうずくまったまま二週間程、出てこなかったらしいです。
二週間後、姿を現わし、ちゃんとお行についてきたそうです。なんと健気な・・・負傷しているときも必ず午前3時にはしっぽで雨戸を叩き時間を知らせたそうです。時計もないのに。
酒井師は「お行は独りでやったと思っていたが、いつでも僕にはシロとクロがいた」と語っていたのが忘れられません。
シロちゃんは仏のご加護か深い傷にも関わらず、治ったそうです。
シロちゃんの行動は酒井師との信頼関係から生まれた身代わり行動と思われます。それを見ていた神様がご褒美として傷を早く治してくれたのでしょう。